フランス音楽事情
後にバッハ、ベートーヴェンと並んで3大Bと呼ばれるブラームスがハンブルクで生まれ育ったころ、パリにはモーツァルトを上回る神童サン=サーンスがいた。3歳から作曲し、13歳でパリ音楽院に入学、16歳で交響曲を作曲、1857年22歳でパリのオルガン奏者として最高峰のマドレーヌ教会のオルガニストに就任している。ベルリオーズは彼を「全てを心得ている」と評した。しかし、残念ながらドイツでのブラームスのように「新しい道」として扱われることもなく、あと数年、生きる時代が違えばもっと大きな存在であっただろう。ピアノ三重奏曲でその流暢な音楽を味わっていただきたい。普仏戦争(1870-71)中であった1871年、サン=サーンスはフランス国民音楽協会を設立し、デュボワやフォーレも加入した。協会はフランス音楽において舞台劇から器楽曲に比重を移し、その後の流れを作っている。
サン=サーンスは20年間マドレーヌ教会のオルガニストを務め、デュボワが1877年に後任としてオルガニストに就任した。当時40歳。デュボワは1896年にパリ音楽院院長となり、1905年に厳格な対位法と和声を駆使したまさしく当時のパリ音楽院の作風というべきチェロソナタを作曲しているが、この年の院主催のコンクール(ローマ大賞)で作曲科教授フォーレのクラスの学生だったモーリス・ラヴェルが落選したことからコンクールの不正が問題となった。68歳のデュボワは2か月前に院長を退職しており、直接的な関与はしていなかったが批判を浴びた。おそらく音楽院の伝統的な作風でなかったことがラヴェル落選の理由だったと思われる。浜松国際ピアノコンクールは幅広い審査員と録画の公開で公平さを維持している希少なコンクールだが、基本的にコンクールは関係者による不公平があるのは昔から変わらないので、そういった経歴で評価してはならない。デュボワは68歳で退職したが、その後87歳まで長生きすることになり、不遇な晩年を過ごした。したがって、チェロソナタは当時のフランス音楽における名品にもかかわらず十分な扱いを受けておらず、海外では録音記録はあるが、ずっとドイツ寄りであった日本では演奏記録すらない。チェロソナタはちょうどフランス音楽の転換期にはまってしまい、不遇な扱いだが、言い換えるとこの後には終楽章のような華麗な転調を伴う作品は世に現れず、まるでバッハが晩年に古いとされたのを連想するが、復活してしかるべき作品であると考える。また、同年に作曲されたオーボエを加えたピアノ五重奏曲も美しい緩徐楽章があるので、ぜひ探して聴いていただきたい。
フォーレについて
1853年、半世紀以上にわたる不安定な政治によりフランスの教会音楽は壊滅的な状況だったところにスイス人ニデルメイエールがパリに古典宗教音楽学校を開校し、翌年9歳のフォーレが入学した。1861年ニデルメイエールが死去すると、ピアノ教師としてサン=サーンスが就任し、フォーレは彼に学ぶことになる。1870年から翌年にかけての普仏戦争に従軍し、1871年に軍役を終えると、多くの市民が虐殺されたパリを離れ、スイスに疎開していたニデルメイエール音楽学校の作曲教師として赴任した。この赴任は一夏の間だけだったが、フォーレはスイスを気に入り、何度も訪れるようになった。1896年、デュボワがパリ音楽院院長に就任するにあたってフォーレは院の作曲教授およびマドレーヌ教会オルガニスト後任に就き、さらに1905年にデュボワが院長を退職するにあたりフォーレが院長に就任し、外部者の試験審査を取り入れる制度を設けるなど音楽院改革を行った。1909年に国民音楽協会からラヴェルらが離反して独立音楽協会が設立され、フォーレは初代総裁に就任。晩年は音の高さが違って聞こえる難病にかかる。作風については対位法が厳格な音楽院と対照的に柔和に音型を細かく積み重ねて旋律を作る手法をニデルメイエールから引き継いでおり、19世紀末からのアール・ヌーヴォー(花などのモチーフをちりばめた美術)と通じるところがあるが、メンデルスゾーンやグノーの影響を受けた美しい旋律の合唱曲も書き、レクイエムは特に有名。
サン=サーンスとデュボワが長生きしたため、3人とも同時期に死去している。1921年のフランスはエリック・サティを慕う6人組が結成され、奇抜な舞台音楽を奏でていた。そして、古典的様式は姿を消すことになる。
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